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長時間労働で発症したうつ病と3度の休職をきっかけに、全てがハッピーに向かうブログ。今の苦しさもハッピーエンドにつながる。止まらない不安に悩む方の背中をそっと支えられたらうれしいです。コメント&Twitterメッセージ大歓迎!

ketoraaaってダレ?何している人?

こんにちは!

ketoraaaです!

このブログを書いているのがどういう人間か分からないと、これからお話ししていく内容もピンとこないかと思いますので、まず、私の自己紹介をさせてください。

ketoraaaは、1982年3月24日、群馬県館林市生まれです。

群馬県館林市は、人口8万人くらいの地方都市です。暑いことで有名で、天気予報によく登場します。

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昔は館林城というお城があって、5代将軍の徳川綱吉が城主だったこともあるそうです。

日本人女性初の宇宙飛行士の向井千秋さんの地元でもあります。

地元の印象は、、、あまり思い当たらないです。

東京から90分くらいなんですが、東京に近い地方都市は、東京という強烈な磁場の影響で、ミニ東京、プチ東京を目指してしまい、個性がなくなっているような気がします。

国道に電気屋、スーツ屋、ファミレス、車屋が並ぶ、どこの地方都市でも同じ景色になってしまっています。

情報と人の往来がかなり自由になったので、都市間の競争が激しくなり、東京の劣化版のような個性のない都市の場合、人口減少とともに、いまより街の機能の維持が厳しくなっていくと思います。館林がどうなるかは分かりませんが。

別にどこもかしこも東京にならなくも、この街は自然で売るとか、教育で、ICTで、短時間労働で、子育てで、農業で、とか個性があって、私たちが思想とかライフスタイルに合わせて住む街を選択していく、という形が面白いんじゃないかと思ってます。

私は、地元の小中高に通い、アニメとマンガとゲームが好きな普通の子供でした。

からくり剣豪伝ムサシロード、ミスター味っ子、キャット忍伝てやんでえ、ママは小学4年生、オーマイコンブとか好きで観ていた記憶があります。

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昔は本屋さんでいくらでも立ち読みできたので、ずっと入り浸ってました。

拳児とか、好きでした。

中学では陸上部でした。短距離選手でした。

中学2年生の時の7月に、長距離トラック運転手だった父親が仕事で交通事故を起こしたことをきっかけに会社から責められ近所の駐車場でガス自殺しました。

その後は保育士の母親に育てられました。兄が2人、弟が1人います。

長男も大学院生の時にうつ病で休学してますし、次男もうつ病で三度休職しています。おばさんもうつ病になったことがあります。

父親も、当時は診察を受けませんでしたが、あの時の様子を思い出すとうつ病だったと思います。

うつ病は私にとってすごく身近な病気です。

うつ病と言うと、身体が弱いというイメージを持たれる方もいると思いますが、小学校のときは学年で一人だけ総合的に健康な子を表彰する健康優良児に選ばれていますし、中学校の陸上部では部長で県大会にも出場しています。

推薦で群馬県立館林高校に進学。

スタジオジブリが大好きで、高校1年生の時に公開された「もののけ姫」を見てアニメーターになりたいと思うようになりました。

中学の時は友人との競争でゲームのように勉強を楽しめましたが、高校の授業は心の底からつまらなかったです。

高校生くらいになると、ある程度先生の教え方の上手い下手、工夫の有無も見えてきます。

教え方が上手い先生は3年通じて1人だけで、それ以外の時間は苦痛でした。

高校卒業という資格を得るために、毎日5時間も6時間も面白くもない話を聞き続ける苦行をする意味がわからず、悶々とした日々でした。

部活も、体操部に入って辞め、ラグビー部に入って辞め、空手部に入って辞め、最終的には演劇部の幽霊部員でした。

私は軽く運動して汗を流したいだけなのですが、部活はその競技の上達を目標にしていて、必要以上に拘束時間が長いことに耐えられませんでした。

いまでは考えられませんが、12時間ぐらいはぶっ続けてゲームやってました。

勉強しなければと思えば思うほどゲームやってしまいました。

物への執着も強く、マンガとかアニメーターの画集、アニメをとったビデオをコレクションしてました。

高校3年生の受験のプレッシャーの最中に、高畑勲さんが監督した「赤毛のアン」というテレビシリーズをビデオで見てめちゃめちゃ感動し、高畑勲さんが講師をしていた日本大学芸術学部映画学科映像コースに進学しました。

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「この世界の片隅で」の片渕須直監督や、「もののけ姫」の作画監督の安藤雅司さんが在学していたところです。

大学は、好きなものを追求するというよりも、理屈を戦わせる場でした。

「こういうものが見たい!」というよりも「それを作る意味は何なの?」ということが強く問われます。

もともと絵をかくのが好きという訳でもなかったので、技術が追いつく前に、理屈や理論を先行させる大学教育の中では、自分の絵に費やす時間も全然足らなくて、作りながら批評家的な目で見るのがつらくて、自分の拙い作品を作るのが嫌になってしまいました。

まず作ることが好きという出発点になかったことは、クリエーターには難しかったと思います。

あこがれを出発点にするか好きを出発点にするか。

自分の軸を自分の外側に置くか内側に置くか。

このブログのテーマとつながります。

アニメーターの労働環境の過酷さを知るにつれ、奨学金も借りていましたし、金銭的な心配があったこともあり、行動への腰が重くなっていきました。

いまの技術でアニメーターになれるわけない、でもアニメーターにはなりたいと、結論を先延ばしして、就職活動をすることもなく、大学を卒業しました。

卒業後、地元のヤマダ電機でアルバイトをはじめました。理不尽な苦情の多さに嫌気がさし、3カ月くらいで辞めました。

辞めてはじめて、自分が社会のどこにも所属していない者になったことに気付き、自分の将来に対する猛烈な不安に襲われました。

社会から認められることがわたしにとっめ最優先の価値観でした。

そんな焦燥の最中に、たまたま地元の文房具屋に貼りだされていたマンガアシスタント募集に応募し、面接を受けたところ、そのマンガ家さんから、「とにかく東京に出ないとダメだよ」と言われ、何かを変えなければ!と、なんのあてもなく池袋の近くの家賃2万円くらいのところに引っ越しました。

あてもなかったので、図書館で絵を描いたりして、絵を描きためて一度だけアニメスタジオの採用面接を受けましたが、落ちました。

仏像とか気持ちが落ち着く題材を描いていたのですが、「好きなキャラクターとか描いてないと分からない」と言われました。

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(当時描いていた仏像)

東京での当てのない生活の不安が耐えられず、3カ月くらいで地元に戻り、ネットカフェのバイトを始めました。

めちゃめちゃ迷走した日々でした。

ネットカフェのバイトをしながら一つボーダーにしていた25歳を迎えることからアニメーターをあきらめる決心をし、就職活動をして、東京の社員2万人弱のとある大企業に就職し、東京に引っ越しました。

就職して最初の2年は、亀戸に配属され、暇な部署で残業もほとんどありませんでした。総務的な仕事でした。

3年目に新宿本社の忙しい部署に異動になり、給与計算などの仕事でしたが、残業時間も月60時間くらいになりました。

そういう部署があることは聞いていて、「そんな生活無理だろ」と思ってましたが、やってみると嫌々ながらもなんとかこなせました。

でも、ほんとうに嫌でした。

特に人間関係、というか、変な人対応?にとにかく消耗しました。帰りの電車で気持ち悪くなって吐いたりしました。

ただ、怒られたり注意されるのは苦手で、怒られないようにすごく真面目にはやってました。

ところが、入社5年目、その部署でも一番と言われる忙しい財務の担当になりました。多い時で残業が月150時間くらいになり、朝5時に家に帰って朝9時に出勤することもありました。

その仕事にも、それまでの仕事にも意義を見いだせず、入社6年目に希望して東日本大震災の被災地の部署に異動しました。

内容は詳しく書けませんが、復興の一丁目一番地と言われる業務でした。

ところが今度は、活用されない資料を延々と作ったり、その場しのぎの仕事に追われたり、5時間も打ち合わせをした挙句、何も結論が出なかったり、話し合いが議論というよりも子供のケンカだったり、という異動先の風土に悩みました。

職場全体を改善しようと改善案を色々提案しては動いていたのですが、異動から8カ月後に適応障害を発症し、精神科への通院を開始。本社に戻され、仕事を休職しました。

1カ月半の休職で体調は回復し、入社7年目、飯田橋の落ち着いた部署に異動しました。高校生向けの事業の立ち上げなどやりました。

通院を続けながらもゆっくりと体調は回復しました。

その部署にいる2年の間に結婚。

会社の昇任試験にも合格しました。

昇任試験はとりあえずみんな受けますという感じなので、あまり疑問をもたずに受けました。

入社9年目、再び本社の忙しい部署に異動。法務とICT系の業務でした。

今度はまともに引き継ぎの資料のない膨大な定例業務や、これまでと性質の違う業務内容、上司との相性、常連偏執的クレーマーに悩み、異動から1カ月でうつ病が再発しました。

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今度は半年間、仕事を休みました。

この間、リワークに参加し、そこでの経験が、このブログの元になってます。

平成27年12月に復職し、入社10年目の平成28年4月に南砂の落ち着いた部署に異動、いまに至ります。

そういう私です。これからよろしくお願いします!