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長時間労働で発症したうつ病と3度の休職をきっかけに、全てがハッピーに向かうブログ。今の苦しさもハッピーエンドにつながる。止まらない不安に悩む方の背中をそっと支えられたらうれしいです。コメント&Twitterメッセージ大歓迎!

【認知療法】学校が息苦しい皆さん!大丈夫!善悪という旧時代の思考からの脱却して、自然にいきましょう

こんにちは!

仕事始めを風邪で休みましたketoraaaです。

前回は、小学生から大学生までの鮮烈に残っている否定的な記憶についてお話ししました。

その他の固定観念や習慣についても、自分の思考パターンが見えてくると、多くは大学生までの人生の初期約20年にわたって繰り返し訓練し、身に付けたものであることに気付きました。

例えば、学校では、多くの問題にたった一つの正解が設定され、正解にたどり着くことを目指して繰り返し繰り返し問題を解きます。

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小説にも、必ず筆者の意図という正解があって、それ以外の読み方は不正解です。

正解か不正解か、1か0、全か無。この二元論が学校世界を支配する法則です。

100点という正解があってそこからの減点法で評価されますから、どうしても減点法的思考である「間違いを減らすことがベスト」という発想が身につきます。

この信念は固定化し、正しくないこと以外は全てダメという極端な強迫観念となって私たちを縛ります。

正しい生徒であろう、正しい子であろう、正しい社会人であろう、正しい親であろう、正しい恋人であろう、正しい夫・妻であろうと。

正しさは、ないにも関わらず。

例えば、言葉の正しさや文字の書き順は、学校教育初期に集中的に訓練しますが、国によっては「言葉は個性」と捉えて、「言葉の正しさ」はあまり気にしないこともあるようです。

現在は多少変わってきている部分もあるようですが、この正しさという基準が、子供時代に圧倒的な時間を費やす学校や試験の主流であることに変わりはありません。

ですが、社会に出ると、物事に大抵正解はありません。仕事の進め方にも恋愛にも家族のあり方にも、もちろん生き方そのものに、その時代時代の流行、その人に合う方法合わない方法はあっても、唯一無二の正解はありません。

逆に1でも0でもないものしかありません。二元論ではとても収まりきるものではありません。

最低限のルールを守っていれば、自由に生きて良いのです。

ところが、強迫観念に無意識に縛られた私たちは正しくあろうと知らず知らずのうちにふるまってしまいます。

しかし、そういった広い枠組に対して、学校での訓練と同じアプローチで臨むと、「完璧ではない自分はダメ」と、内省心理学のパラドックスのなかで、できない原因探しに自由な人生のほとんどを費やすことになります。

「正解」がないのと同じように、社会的に共有される法はあっても、「間違い」はありません。

「間違い」が新発見につながる創造的な誤りもあります。

大野裕さんも著書で書いていますが、「間違い」によって、何が問題だったか明らかになるという意味では、「失敗」ではありません。

学校から社会に出て、正解を知っているか知らないかという場面に出くわすことはありませんよ。

逆に、行動してみて何が起きるか見てみる、価値観が違う者同士が、どのように折り合いをつけるかというような場面には、何度も出くわします。

間違いながら、トライアンドエラーを繰り返しながら、成長していきます。

完成した親、完成した社会人、完成した夫・妻は、観念上のもの、想像の産物でしかありません。

次に、学校では、休まないことが健康の証とされて評価され、体調が悪くならないと休んではいけません。

皆勤は賞賛の対象です。皆勤賞ってありませんでしたか?

ですが、仕事では体調が悪くならなくても休み、疲労を溜めこまないように健康管理も含めて自分をマネジメントしていくことが重要です。

学校などの自分の外側のものに、自分を委ねてはいけません。

他にも学校では、自分自身の意思よりも、教師の言うことを教師の期待通りに行動することが最良とされます。

なぜなら教師という他者が、学校という世界における唯一絶対の評価者だからです。

教師の期待通りに行動するためには、教師の気分・気持ち・期待を先読みする必要があります。

就活も似たようなものです。

自分の気持ちを適切に表現することよりも、他者の気持ちを慮ることが求められ、他者がどう思うかが、自分がどう思うかよりも大切な価値です。

「そうしたら相手はどう思う?」という注意のされ方をされた経験のある方も多いと思います。

もちろん、相手の気持ちを考えて行動することも大切ですが、それと自分の気持ちとは、どのように折り合いをつけるのでしょうか?

肝心のその部分は、空っぽです。

国民の義務として訓練されるこの曖昧な「気持ち」をよりどころとした生き方の規格は、私たちの標準としていつまでもはびこっています。

「反省の態度がなっていない」とか、全人格労働とか、有名人の個人的な不祥事をいつまでも糾弾する報道などです。

その人の丸ごとが外部の基準で一色になることを、当たり前に常識として暗に求めています。

反省は、「態度」でするものでしょうか?「行動」でするものでしょうか?

態度でするのだとしたら、食欲なく、眠れず、げっそりとしたら見事に反省できたことになるのでしょうか。

その人が食欲なく、眠れず、げっそりしうつ病になった結果、糾弾した側の懲罰感情が満足する以外に、何がうまれるのでしょうか。

もちろん、社会に出ると、唯一絶対の評価者はいません。

会社からの評価はあるでしょうが、そのような曖昧でいい加減で会社の都合でどうにでもなるものに自己評価を委ねていたら、消耗する一方です

他にもあります。学校では、決められた時間に決められたことを行い、中間テスト、期末テスト、部活と、同じ周期、リズムでの生活を身体で覚えます。

「はじめ」「終わり」「起立」「礼」「集合」という号令に従って、行進や礼といった集団行動の訓練も繰り返されます。

自分のペースよりも、決められた時間内に終わらせることが優先です。

自分たちのいいところを見るよりも、自分たちは何がダメで何を改善するべきかを考えることに多くの労力が割かれます。

改めて考えてみると、いかに自分を蔑ろにする習慣や価値を訓練してきたのかと、思わずにはいられません。

社会で必要な習慣や価値とも、あまりにも乖離しています。社会に出た途端、「じゃ、後は自分一人で頑張って」と放任されて戸惑うのも無理はありません。

国家の経済成長という「一つ正解」を社会全体で追い求めていた時代には、こうした訓練が適した面もあるかもしれませんが、物質的豊かさだけを追い求めることの限界は明らかです。

SNSや仮想通貨、AIなど、これまでの資本主義を根底から覆すような時代の変革期の真っ只中です。

そういった変革、「多様性」や「持続可能性」への柔軟な対応力が、偏差値や集団行動の訓練からは生まれるとは思えません。

学校教育にはものすごくコミットした人が、社会人になって会社にいいように搾取されて消耗していく様子をたくさんみてきました。私自身も含めて。

一言で言うなら、学校という世界では、与えられたルールへの過剰適応が最良とされ、逆に社会では、変化への柔軟な対応や、自分への信頼が力になるということです。

そのひずみはそこかしこに現れています。そのひずみの一つが、多くの人が自分の自然な生き方に気付けず、強迫観念や先入観に縛られてうつ病になるという現状です。

私は、前回お話しした経験や、学校を通じた訓練に適応した結果、私自身の素直な気持ちに蓋をし、「私はいるだけで人を不快にする」「言われたことだけやらなければならない」「責められないことを最優先に行動しなければならない」「自分が調子に乗るとロクなことはない」という信念を形成し、私の被害妄想的で神経質な一面を作ったかもしれません。

ですが、私の場合は、いまは「それはそれ」と思っています。

最初に書いたように、自己分析して自分を責めても、この30年間と同じことの繰り返しです。

それであれば、「私はいるだけで人を不快にする」「責められないことを最優先に行動しなければならない」「自分が調子に乗るとロクなことはない」と「思っている自分がいる」という特徴を理解した上で、その私が自然に生きられるあり方を探していきたいのです。

ただ、EMDRといった新しい治療法も登場し、スキーマが治療法上重要なこともあると思いますので、スキーマと向き合うときは必ず専門家の下で行っていただきたいと思います。

つづきます。

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